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2005年夏号〔第2号〕

VIVOギャラリー 自分に贈る絵手紙

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出会いのある橋たち
人はだれも幼いころの思い出を心の奥深くにもっているものです。
川は私にとってまさしく故郷の原風景なのです。
病に冒され三度にわたる大手術を受けた今、思いでいっぱいの川なのに、その川底を転がりながら流され、川面に出たいともがいている自分がここにいるんです。
歳を重ね、職を辞し、患ったが故に、これまでの自分と向き合い、新しい自分発見を願って「橋と民家のある川」の絵を描き、「自分に贈ることば」をそえた絵手紙を書いています。(作品展案内より抄出)
三輪 隆
・昭和11年3月26日 福井県大野町に生まれる。
・岐阜大学体育科を卒業後、揖斐郡藤橋村杉原中学校に着任、海津町立日新中学校校長として任を終え退職。
・県下の川に架かる橋をテーマに風景を描き、自分探しのことばを添えた「自分に贈る絵手紙」の制作を始める。
・平成12年岐阜高島屋を皮きりに平成17年1月までに25回の作品展を開き、好評を得る。

VIVOな人々 草の根活動で自然に生きる 冨岡卓博さん


VIVOな人々 輝いています75歳 金井多賀子さん


VIVOな人々 登山に生きる 高橋禎子さん


こんなところに温泉が


子どもたちが待っていますよ となりの美術館


ギフベスト 飛騨・美濃いいものが大集合


《小さな旅》シリーズ 里山ウォーク2

眼下に岐阜の街を見たいと思った。金華山や百々ケ峰山頂からの眺望もいいが、天邪鬼もいいじゃない?方角ずらしもまた佳しと、鷺山から北へ。若いユリノキの並木路に小さな木陰を感じながら、里山に親しみ、結びにはつがいの駝鳥との出会いを求めて、峠も越えた。

マーサ21の賑わいを背にして、まずは鷺山に向かう。道三ゆかりの山が公園になったという興味もあった。登り口は東西南北ともにあるが、西の心洞寺南端から樹間の頂上へ。すこし下りると、丘のような所に出た。こりゃあ、お勧め展望公園だ。金華山をはじめ、市街がじつに広々と手近に眺められていい。眺望の愉しみもそこそこに、北部体育館を左前方に見て、城田寺への直線道路に戻る。

ここにチューリップツリーが…
02-2-2.jpg02-2-1.jpgここから北へは若いユリノキの並木が一㌔以上続く。英名チューリップツリー。五月、木をよく見上げれば、きっと黄緑色にオレンジの筋の入ったお椀のような花が見つかるはずだ。緑葉からのぞくこの花は何とも淡くやさしい。鳥羽川に架かる正城橋を下ると右手には野菜の朝市小屋。昼で人気もない。ユリノキ並木を途中で別れ、城田寺団地一つ手前で右折して真っ直ぐ東に向かう。やがて道はカーブになるが、曲がらずそのまま柿畑の小道を行く。

古刹とトンネルドリームと
02-2-3.jpg02-2-4.jpgぶつかれば左に白山神社。その脇が山林に覆われた古刹舎衛寺、美濃版応仁の乱の果てた地だ。門前に「船田合戦終焉之地」の石碑がある。道三以前の歴史への思い入れも程々に、人影のない閑静な寺を辞した。カーブの道まで戻って少し西に行くと、広い北からの道。これをたどると、常磐トンネル西口の道路に出る。この南側に旧トンネルが隠れるようにあった。今「ときわ歩道トンネルドリーム」。ひっそりした明るさと“ドリーム”の名に惹かれ、立ち寄った。九四年完成とあるが、内壁には常磐小の子供たち共同の陶画が、ズラリ並んでたのしくなった。

岐阜市の北フェンス、城ケ峰へ
02-2-5.jpgトンネル隣に城田寺公園。その西に常国寺がある。この山門右手に鉄塔巡視路があって、これが城ケ峰への登山道になる。左に墓地を見ながらコナラ、アベマキなど広葉樹の下を登って行く。五月、スモークツリーのような木が所々に。同行者が「おや、ナンジャモンジャ?」まさか、ヒトツバタゴが?よく見るとアオダモの白い花だった。尾根歩きで鉄塔を過ぎると、第二ピークが頂上。南側だけはひらかれて、市街が一望できる。眼下には岐大の新キャンパスが広がっていた。大休止のあと、第一ピークまで引き返す。近くに椿洞への小さな標示があるので、ここから下山開始。急造の下山路といった感じで足下がおっかないが、急がなければ大丈夫。雑草をわけて下りきった所が椿洞の入り口だ。

東海自然歩道とともに
02-2-6.jpg岩崎方面からの東海自然歩道に合流。農家の庭先の、畳一帖ほどあるウチワサボテンにびっくりしながら、そのまま集落を小谷沿いに奥へ。竹やぶ帯に入ると、もう人家はない。やぶの切れた所に雨風に晒された自然歩道特有の休憩ベンチ。それを尻目にわずかな時間で何もない峠に。休まず下ると、そこは石谷の団地(光団地)。団地の外れで右折、サルスベリで知られる福満寺に寄る。山門のシダレザクラの花はとっくに終わっていたが、夏を待つサルスベリとともに大銀杏の幹に這うシノブが見事だった。シダレザクラの美しさもさることながら秋には銀杏の落葉の黄とモミジの赤とのコントラストは、絶妙。伊自良川の堤に出ると、北側にピラミッド屋根の大きな建物が見える。今回の終点、JAぎふの「アグリパーク鈴ケ坂」だ。


つがいのダチョウに迎えられて
02-2-7.jpg門のすぐ右に、高い金網が山手に向かって張られ、奥行も長い。ここに番で二羽の駝鳥が飼われている。網に近づくと、網目に大きな嘴を叩くようにして寄って来る。怖いほどだ。そして悠然と羽ばたきのデモンストレーション。職員の沢田正典さんの話では、週に卵を一個平均産むそうだ。口コミでそれを買い求めに来る人がいるとも。そういえば店内のカウンター上に、ラグビーボールをひと回り小さくしたような卵が五つほど積み上げてあった。裏手には市民健康農園。元気にここまで耕作に来る人もいるのだ。全長八㌔以上に及んだ里山歩きも、暑さと汗のせめぎあいには敵わなかったが、快い疲労でいい気分が残った。この快さは、きっと自然とのふれあいに加え、元気な駝鳥からの愛嬌のプレゼントによるものかも知れない、ふとそう思った。

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①鷺山
標高六八㍍。戦国期には、土岐氏の一時居城であり、斉藤道三の隠居所にもなった歴史ゆかりの城址。
②舎衛寺
真言宗の寺。室町期、守護として権勢を誇った土岐氏の相続争いで、自害終結の場所。本尊の釈迦如来坐像と金銅割五鈷杵は県の重要文化財である。
③モッコク(岐阜市の指定保護樹)
「常国寺」前バス停の西一〇〇㍍、河田彦二さん宅門前に二本の大樹がある。河田さんの話では推定樹齢二、三〇〇年。ツバキ科の常緑樹で、七月黄白色の花が咲く。
④城ケ峰
標高二八八㍍。市内北部にフェンス状に連なる山脈の一峰で、中電鉄塔巡視路が登山道。山名の由来不詳。
⑤福満寺のサルスベリ
岐阜市の天然記念物。樹木医の手術によってピンク満開までに見事樹勢を回復。岩山を借景に八重ザクラも有望。
[交通機関]
新岐阜からバス「正木マーサ前」。帰りはバス停「安食口」から乗車。

ちょっとひとこと
●常国寺境内に入り、墓地右下から並行して真っ直ぐの登り坂が登山道。(階段手前の、鉄塔No.50/51標示板のあるヤブの道には入らぬこと。)また、椿洞への標示は、尾根道の北側にあって小さいので注意。
●夏場は蜂、マムシにも注意。

そばのはなし第2話  蕎麦のつゆ  木毎庵 そば専人 梅田庄一郎

02-3-1.jpgソバ切りが江戸の町で日常的に庶民の食となるのは江戸中期。蕎麦は、それまでは精進料理か農家の代用食であり、まだソバ切りは存在していませんでした。貴族の京都、商人の大阪と並び称された江戸は武士と職人の町でしたから、食事は手軽で身に重くならないソバ切りが絶大な支持を受けました。醤油がまだ江戸になく上方からの下りものとして庶民には高嶺の花の存在であったその頃のソバつゆは、味噌の垂れ汁を大根の絞り汁で割ったものを用いていました。これに薬味としてわさび、一味、花鰹、海苔、しそ、生姜、ちぎり梅干しなどが添えられます。ねぎは当時まだ使われていませんでした。後に醤油が江戸近郊の銚子や野田で醸造され、庶民の口にも入るようになりやっと「つけ汁」「もり汁」が飛躍的進歩を遂げ、現在のようなうまいつゆが出来上がりました。
うまいつゆ作り
その一「本がえし」をつくる
一番に最上級の素材を選ぶことから始まり時間をかけて寝かせる事が秘訣です。材料の醤油は濃口樽生引きが良い。三年熟成の本みりんと砂糖、これで本がえしが出来ます。かえしを三週間寝かし、だしと調合。
その二「つゆ」を作る
だしは昆布、かつお、サバ、干ししいたけ、干し貝柱などを使用。これを「本がえし」とブレンドします。この時の加熱温度が一番大切。温度は八二度を超えないこと。酵母菌が死滅してしまい発酵しなくなり、うまみがでません。これで三日ほど待ちますと最高のつゆとなります。ご家庭でも「本がえし」を作っておかれると、味付け上手の評判間違いなし。詳しいことは料理本を参考にして下さい。

次回は、新ソバと年越しソバのお話をしましょう。

なつかしの味


新シリーズ なかまたち 岐阜ハーレーベストクラブ


ご存知ですか?「みどりの健康住宅」


介護 わたしの知りたいこと シリーズ2 「おばあちゃんが転んだ!!」

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