新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号

新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号 page 11/24

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物語のある木物語のある木物語のある木親鸞聖人ゆかりの八房の梅〔交通案内〕JR関ヶ原駅からは、町のコミュニティバスがあるが、本数が少ない。タクシーの利用が適当。(不破郡関ケ原町今須平井聖蓮寺)しょうれん....

物語のある木物語のある木物語のある木親鸞聖人ゆかりの八房の梅〔交通案内〕JR関ヶ原駅からは、町のコミュニティバスがあるが、本数が少ない。タクシーの利用が適当。(不破郡関ケ原町今須平井聖蓮寺)しょうれんじシリーズ第5回シリーズ第5回11 VIVO早春、他花にさきがけ凛々として咲く梅の花。花ことばは「忍耐」だ。へつらはぬ枝の強さよ梅の花西郷隆盛との折衝で、江戸の無血開城を導いた勝海舟の句である。初五「へつらはぬ」がいかにも勝らしい。**梅は品種が多く、300種余りもあるという。今回は菅原道真の「飛梅」のように、伝承と歴史の息吹がかかる梅であって、しかも一つの花から八つの実がなる珍種の梅。岐阜県の指定天然記念物でもある。その親鸞聖人ゆかりの古刹聖蓮寺を訪ねた。寺は、あの松尾山を借景として松尾山の南西麓、山の一部を借景として、平井の集落はひっそり閑としていた。寺はその奥まったところにある。松尾山は、頂に関ヶ原合戦の勝敗を決定づけた小早川秀秋の陣があった歴史的場所。寺はそれよりはるかに古い。平安初期・弘仁の頃、無量寿院と号した真言宗の寺で、十七代続いていた。一二三〇年代、越後・関東の念仏弾圧から遁れて帰洛中の親鸞聖人が、無量寿院に滞留されてより浄土真宗に改宗、以後聖蓮寺と号するようになった。梅を末代女人浄土往生の証に『聖蓮寺略縁起』によると、聖人への御饗応の折、梅干しを賞味した聖人は「末代の女人往生証拠の為、一華八菓の梅になるべし…」と言葉を遺し、てずから植え給うた。それが成長、世に八房の梅と称し七百有余年の歳月を経たのだという。現在の木は、すでに枯死した古株から生じたもので、樹高は六メートルを超え、幹周り一メートル七〇センチ、樹勢も旺盛で、学術的に価値ある木である。また聖人が流された越後の梅護寺(新潟県阿賀野市)にも同種の梅があり、そちらは「越後七不思議」の一つとされている。丁字桜と、頑張るカキの木も…あとで確かめたお庫裡さんの話では、寺を発たれた後、聖人は近江の錦織寺(野洲郡中主町)に休まれ、この寺に聖人の聖蓮寺滞留が記録されているとのこと。なお先の『縁起』には、寺の西方、若宮八幡宮境内にある桂の大木も、聖人お手植えとあった。**境内には四季咲きの丁字桜が、ちらほら。何とも可憐であった。山門を出ると、その階段直下に、コンクリートを破って頑張る柿の木があった。背は低いが十二個も実をつけていた。中国から渡来した「梅」。薬用で入ってきた梅が鳥梅(ウーメイ)と言われたとか、「梅」の中国音(mei)が日本語音「ume」になったという説も。八房の梅については、別名が座論梅とも言うらしい。八つの梅の実は次々と落果する習性があり、最後に一つだけ残る。それがちょうど座論という勝負で、次々と敗者が落ちていく姿に似ているからだ。なお、この梅の花の見頃は、春分すぎから三月下旬。Tree with Story9 VIVO