新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号

新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号 page 4/24

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概要:
2VIVO1.昭和の初めまで昭和の初めまで、長良川は長良橋の下流で3つに分かれて流れていました。真ん中を流れるのは長良古川で、早田と則武の間を流れていました。右側は長良古々川で、則武と鷺山の間を流れていま....

2VIVO1.昭和の初めまで昭和の初めまで、長良川は長良橋の下流で3つに分かれて流れていました。真ん中を流れるのは長良古川で、早田と則武の間を流れていました。右側は長良古々川で、則武と鷺山の間を流れていました。そして、左側を流れているのが今の長良川です。大雨が降ると、古川・古々川にも水が流れ込み、時には堤防を乗り越え溢れ出し、一面水浸しになることが度々ありました。そのため、古川・古々川の周辺には、川原や荒れ地が広がり、川岸は、竹やぶ・松林で覆われていました。江戸時代から、毎年のように水害に苦しんできた則武・島・木田・河渡など、川北に住む人たちは、水害の一番の原因である古川・古々川の締め切りを願い出ていました。明治の初めまでは、長良や福光・川南の人たちの反対があってできませんでした。しかし、1900年(明治33)頃からは、川北の人たちが共同で締め切り工事の実現を訴えるようになりました。木曽三川の下流改修工事が終わると、国会で上流改修工事が取り上げられましたが、国はなかなか工事に着手しませんでした。川北の人たち(川北水害予防組合)は、1916年(大正5)、川南の岐阜市や稲葉郡の村の人たちと協力して、県知事や議員たちにも応援してもらい、早く工事を行うよう国に働きかけました。こうして、1921年(大正10)、国は上流工事に取りかかり、1933年(昭和8)に長良川右岸(川北)の改修工事を始めました。2.締め切り工事の様子長良川上流改修工事の中心は、長良古川・古々川を締め切る工事と、右岸の江口から福光までの10キロメートルの堤防造りでした。早田馬場と福光の間で、長良古川・古々川を締め切って堤防を造るにあたり、長良川本流の川幅を北に拡げることになりました。そのため、早田と島地区で約300戸ほどの家が立ち退かなければなりませんでした。以前は、忠節橋の所で173メートルだった川幅が、266メートルに広げられました。そして、堤防は、堤防敷で元の幅の3倍近くになり、高さも1倍半ほど高くなりました。工事に必要な土や石を運ぶのに、外国から取り寄せた機械や蒸気機関水害を防ぎ、新しい町を創る水害を防ぎ、新しい町を創る―長良古川・古々川の締め切りと岐阜特殊堤――長良古川・古々川の締め切りと岐阜特殊堤―ふるさとの歴史こぼれ話Vol.5長良橋の下流200メートル右岸堤防上に「長良川上流改修工事記念碑」が建っています。この西北には長良川国際会議場・メモリアルセンター・長良川競技場などがあり、今秋には、「ぎふ清流国体」が行われようとしています。周りにはマンションや住宅、商店などが広がり、落ちついた町並みとなっていますが、昔からこうだったのでしょうか。長良橋の下流200メートル右岸堤防上に「長良川上流改修工事記念碑」が建っています。この西北には長良川国際会議場・メモリアルセンター・長良川競技場などがあり、今秋には、「ぎふ清流国体」が行われようとしています。周りにはマンションや住宅、商店などが広がり、落ちついた町並みとなっていますが、昔からこうだったのでしょうか。締め切り工事前の土地の様子現在の長良川とメモリアルセンター付近昭和初めの長良川の様子