新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号

新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号 page 5/24

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概要:
和14)、ついに完成しました。きた締め切り工事は、1939年(昭こうして、川北の人たちが願って働きました。完成までの6年間に延べ20万人がもっこで土や石を運んだりしました。ロッコを引いたり多くの男たちが車....

和14)、ついに完成しました。きた締め切り工事は、1939年(昭こうして、川北の人たちが願って働きました。完成までの6年間に延べ20万人がもっこで土や石を運んだりしました。ロッコを引いたり多くの男たちが車を使いましたが、その他、馬がトトロッコが走る右岸・東島付近の様子昭和初めの忠節橋と古い堤防左岸・岐阜特殊堤工事の様子た。で、少しでも高くなるようにしまし手すりの溝に畳を1枚ずつはめ込んで造られ、水かさが増えてくると、石垣は水の力を弱めるために曲線殊堤」と言われているものです。事が行われました。これが、「岐阜特リート・玉石を使った特別の堤防工そこで、たくさんの鉄骨やコンク浸しになってしまうからです。と、岐阜市中心部から加納までが水たりから忠節橋までの堤防が切れるばならなくなりました。長良橋のあの堤防も今まで以上に強くしなけれ川北の堤防工事とあわせて、川南3.岐阜特殊堤を築く現在の岐阜特殊堤所も区画整理が進みました。地となりました。それまで畑だった住宅やアパートが次々と建ち、住宅た。古川のあとの近島付近は、県営それにつれて商店が並んでいきまし険局、市営5年(昭和や県30)営頃住か宅らな、消ど防が署建やち保、古々川の跡の鷺山方面は、195できました。場(現メモリアルセンター)などが後も、多くの学校や岐阜県総合運動北高校)が移転立中学校(昭和は、1944年(昭和して16年来創ま立し・19)た今に。の岐その岐阜阜市締め切りによってできた土地に4.川のあとの開発と今TEL058‐231‐6726http://book.geocities.jp/gifurekisi/rekisitop.htm代表後藤征夫「お話・岐阜の歴史サークル」岐阜市歴史博物館ボランティアとに、後藤征夫がまとめました。曽川上流80年のあゆみ」などをも「島郷土史」「早田郷土誌」「木○この文章は「私たちの岐阜市」が、こんな歴史があったのです。いた文化的なエリアとなっています現在、川北の地域は、実に落ちつ■明郷中学校■伊奈波中学校県立岐阜■商業高校■県立岐阜北高校■岐阜北郵便局早田■小学校■赤十字病院■北消防署廃川敷地に建てられた公共施設長良川国際■岐阜メモリアル会議場センター■■都ホテル改修前に堤防のあったところ改修記念碑の建っているところ3 VIVO