新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号

新たな自分に出会う情報発信誌 VIVO 2012年冬号 第28号 page 9/24

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わ1和知城址(稲葉城公園)まさみち稲葉方通(美濃三人衆の一人稲葉一鉄の四男)の居城址。関ヶ原合戦で戦功を挙げ、加茂郡五カ村を領有、その後、4代続いたが嗣子がなく、尾張藩の領有地になった。しょうでんじ2正....

わ1和知城址(稲葉城公園)まさみち稲葉方通(美濃三人衆の一人稲葉一鉄の四男)の居城址。関ヶ原合戦で戦功を挙げ、加茂郡五カ村を領有、その後、4代続いたが嗣子がなく、尾張藩の領有地になった。しょうでんじ2正伝寺臨済宗妙心寺派。夢窓国師の開基と伝えられ、のち稲葉方通が創建した。椿大門が知られている。3古城山(金山城址)標高280m。天文6年(1537年)斎藤道三の養子、斎藤正義が道三からうほうじょうちじょうあと烏峰城として与えられたのが最初。のち永禄8年、織田信長がこの城を森可成に与え、金山城よしなりと改称。可成が戦死して息子の長可が継いだ。最後の城主は長可の末弟忠政だが、転封のため犬山城主の管轄となり廃城。(1601年)愛宕山至美濃加茂IC兼山湊跡6蘭丸産湯の井戸▲森蘭丸像と冠木門▲蘭丸像と冠木門▲兼山ダム▲東海環状道の架橋(兼山瀞)民俗兼資山料歴館史4下渡橋381兼山瀞5可成寺418兼山小▲芭蕉翁之墓(可成寺)八百▲城風展望台(稲葉城公園)津野上工業団地町2正伝寺野上交差点418和知城址木(稲葉城公園)1曽川和知小巨大タンク群稲葉橋350兼山ダム兼山橋兼山町3古城山(金山城址)蘭丸ふる里の森東海環状自動車道至可児御嵩IC御嵩町381▲森可成・長可の墓八王子山【交通案内】▲古城山山頂の社殿●JR美濃太田駅から八百津方面行YAOバスで、「野上」下車。●兼山町内の各バス停からは、同じくYAOバスで、名鉄広見線明智駅行があり、犬山方面へ。【総歩行距離】およそ7km4兼山歴史民俗資料館明治18年に竣工した木造懸け造り三階建ての小学校校舎を、平成6年に改修し、歴史民俗資料館として開館。南面からは二階造り、北面からは総三階という学校建築としては稀な建物である。歴代金山城主に関する資料、江戸以降に栄えた商家の資料などを展示している。入館料200円。かじょうじ5可成寺臨済宗妙心寺派。元亀元年(1570年)、森可成を弔うために創建された森家の菩提寺。山筋の墓所に可成・長可・蘭丸・坊丸・力丸の墓が残る。6兼山湊跡県の指定史跡。戦国時代以降、兼山は城下町として栄え、木曽川上流唯一の商港であり東濃地区の物資集散地として、明治時代まで繁栄した。船着場の石畳と灯台が現存する。は山門正面に筆塚に並んで、芭蕉翁之墓とねばならぬ。またT字路に戻った。可成寺で思い入れがつよくなった。可か成じょ寺うじに行か可た成ず寺ねにる森家墓所を▲兼山歴史民俗資料館▲兼山歴史民俗資料館北面兼山の忘れられない風景になった。ても裏から見ても印象的だ。脛当とともに、明治のた佇たまずいを遺すこの建物、表から眺めかつての職場の先輩だった人であったから。値を論文に発表した甲冑研究家Y氏は、た。旧『兼山町史』で知ったのだが、その価たしにとってその意義と近しさとが重なっされ、なかでも長可の脛当(県重文)は、わ城主の資料は年代順にコンパクトに展示下山してまず歴史民俗資料館に寄った。長ふ可との脛すね当あてを見て、…二十七歳。単騎奮戦、壮絶な最期を遂げた。享年んだ。鎧の上に白装束を羽織って出馬し、敗もあって、長久手の合戦では不退転で臨負わされた。長可の場合、小牧の戦いの失蘭丸と、すべて戦死という武士の宿命をちは、最後の忠政を除いて、可成・長可・ながら思った。それにしてもここの城主たの役割を果たしている。樹間の遠望をしおり、木曽川が自然の要害として、大外堀▲森一族の墓群▲兼山湊※森三兄弟の墓石左から坊丸、蘭丸、力丸灯がともる、気障だがそう思った。もう常夜灯に火は入らないが、旅情には墓所から川湊のほうへ下った。石畳に来て、るため、川湊一帯を免租地にしたという。長可は町づくりの一環として、物流を図**した、身内への心くばりだった。はどこにもない。あるのはリアリストに徹候。」武士によくある死に際しての美意識もと思う。「我々跡目、くれくれいやにて切である。いまはせめてキーワードだけで尾藤甚右衛門宛ての、長可の遺言状は痛鬼武蔵の慟哭がよ甦みがるえ。豊臣秀吉の近臣、た年子の三兄弟、蘭丸・坊丸・力丸の墓。長可の墓。右手は、ともに本能寺で戦死しそれより一段高い奥にあった。左に可成、廃線路から山手側に古い墓群があり、遺川言状に慟湊に慕情どう哭こく、百津線の廃線路だった。山手に向かう。かけ上がった土手は名鉄八からも来るのだそうだ。ご住職に失礼して日の行事で、森一統を名のる人々が、東京話が蘭丸祭に及んだ。毎年六月の第一日曜を問うと、本堂裏の山手にあるとのこと。蕉の墓は手がかりもなかったが、森家の墓ご住職の小松宗仁さんをたずねた。芭いう石碑がある。墓?不思議な気がした。7 VIVO